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はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術

読んだ。

はじめての批評 ──勇気を出して主張するための文章術 | 川崎昌平 |本 | 通販 | Amazon

なんで読もうと思ったか

ものごとの良し悪しを見定めたいという気持ちになったから。

この本についてこれから感想を書く人

自分の好きなことがわからない、やりたいことがわからない。そんな迷える30歳のおっさん。システムエンジニア

どんな本?

章立てはこんなかんじ。

  • 第1章 批評の意味
  • 第2章 批評の準備
  • 第3章 批評を書く
  • 第4章 批評を練る
  • 第5章 批評を貫く

批評とは何かから始まって、その書き方や表現のテクニックが色々書いてあった。

読みながら日常を振り返る

批評って何だ

批評とは「価値を伝えること」であり「人を動かすこと」とこの本では述べられている。人は対象そのものの価値を知ることで、心が震えたり、何らかの行動につながるわけで、批評とはそんな価値を理解してもらう営みということ。なるほど。とすると、僕たちは日常の、特に仕事上のあらゆる場面で、「批評」をしているようにも思う。

「批評」という言葉と僕

「批評」という言葉には個人的関心がある。関心を抱いたきっかけは、若手社員時代のあるプレゼンの時のことだ。新卒3年目の頃、僕は何人かの同期とともに、いろいろな大学のいろいろな教授向けに大学の価値をプレゼンをするという何とも恐ろしい体験をした。僕は当たり障りのないしょうもないことを言って切り抜けた一方で、ある優秀な同期は、「大学の価値とは、批評する能力が獲得できること」を主張していた。その主張には迫力があり、誰もがゴクリと固唾を呑んで聞いていた(気がする)。それ以来、「批評」という言葉は、やや一人歩きしつつ僕の記憶にこびりついてしまった。要するに、彼は、「批評」の重要性その一点を突き、大学教育の在り方の批評に成功し、オーディエンスである教授陣と僕の心を動かしたのだ。その後の懇親会で彼は人気者だった。僕は端っこで一人でビーフジャーキー的なものを齧っていた。僕は「批評」ができなかったわけだ。

情報伝達と批評は違う。それは主張の有無である

なんで僕は批評ができなかったのだろう。答えは簡単。主張がなかったからだ。つまり、「僕の言いたいこと」がプレゼンに帯びていなかったのだ。論理的整合性や構造化された表現。誰かに何かを伝えようとすると、正しくそれを理解してもらうことに気が行くあまり、これらを意識しすぎてしまう。もちろんそれも大事だが、それは単なる情報伝達。てめえ自身の主張を示せと。それが誰かを動かし得るのだと。そんなことがこの本でも述べられている。

じゃあお前に主張はあるのかという問いかけ

面白いと思ったこと、心に響いたこと、思わず誰かに伝えたくなること。そういうものが主張になり得る。言い換えれば、特に何も意見がなければ批評になり得ないし、人を動かすモノになり得ない。お前は何が言いたいの?という問いに答えが出せない以上、誰かに刺さる批評にはならない。

主張を感じた場面

思い出すのは高校生の時のひょうきんな同級生(JK)だ。ヤツは、ことあるごとに昨日起こったこと等を話だしては、勝手に自分のツボを刺激して手を叩きながら大爆笑していた。これこそ、主張だ。こいつにとってはメッチャ話したくてたまらん思いだったということだ。さぞ気持ちよかったものだろう。

誰がその批評を聞くのか

批評は主張を伴うもの。と言っても、押し出しすぎて自分が気持ちよくなるだけではダメで、かと言って埋没させてもダメなのだ。そんなことがこの本でも述べられている。つまり、受け手とは、真面目すぎても嫌でちょっとくらいの刺激を彼氏に求める女の子だと思えばいいのだ。(と、僕は思ったけど、この本では、(存在しない)大衆を平均化した人ではなく、特定の誰かに向けた批評を意識すべきと述べている。)

誰におすすめしたい本?

アウトプット文化が徐々に根付いてきている世の中で、なんらかの発信を余儀無くされている人は多いことだろう。もちろん、その潮流を肯定的に捉えてノリノリで発信している人もいるだろう。ノリノリだったら多分大丈夫なんだけど、ノリノリではない人。あなたのアウトプットは人を動かすだろうか。良いアウトプットとは良い批評なのだと思う。(要求されるアウトプットが「情報」でしかなければその限りではないが)