人間は考える茸である

吾輩は茸である

さよなら2022年

2022年を一言で表すと

「迷」 毎晩、ワイは何を目指して生きていけば良いのだろうと考えて答えが出ぬ日々だった

仕事を振り返ってみる

転職して3年経った。

初日の時点で転職を後悔し、半年後くらいに精神病む一歩手前までいき、そこから踏ん切りがついて多少のことならこなせるようになった気がし始めて今に至る。職場に帰属意識・チーム意識を求めていたのに対し孤独であるという現実から、プロ野球選手みたく個人事業主的であることが意識としてあれば、どんな状況でも対応できるんじゃね?ということを気づきとして得られたのは大きいと思っている。同じように、会社に所属するというよりも、会社を使うという感覚を得た。多分現代的には、渡り鳥的な姿勢を持っておくのが望ましいと思うけど、その辺りは転職してなかったら気がつかなかったかもしれない。

仕事面白いか?

面白くはない。それ故に、インシデントやトラブルを恐れながらしか仕事してなかったりする。そしてその許容範囲を拡張することを日々の中で精進しているかんじがしている。仕事だからそれが適切なのかもしれないけど、なんか違う気がする。「迷」の原因はこのモヤモヤ感か。多分、食いっぱぐれないように色々技術を身につけようとしてるけど、それはただ単に何らかの問題解決の手段を集めているに過ぎないわけだよね。虫捕まえる気がないのに虫取り網を持ってみたり、料理作る気ないのに包丁の使い方覚えたりってかんじ。面白くもないし、身につかない。それが誰かの役に立ったとして、その手段を講じてやる行為は、仕事というよりも労働に近い。 仕事って、世の中のいろんな問題とか、あるいは誰かの心を震わせられるようなことを認識して、それを解決するために概念にして、その答えに値する、具現化したものを作ることな気がする。で、問題とか心震うことに共感しながら取り組められたら、多分、自分自身も面白いって思える営みになるんだろうなと思ったりする。僕には、地元近辺で戸建て買ってテレワークしながらエイプ100乗り回して夜はデッキでハイボール飲みながらぼーっとしたい。みたいな、状態に対する願望はあるけど、「これがしたい」みたいなものがない。それは、問題意識もなければ、心震う資質みたいな、仕事のきっかけがないからなんだろなと思う。

色々気づきとか

アウトプット大事かも

qiitaに技術情報を投稿してみるという経験をした。書いてみて、手段とかやってみたことを書くだけでは何というか、だめで、問題意識や心震ったりしたことに基づくもの、あるいは独自の解釈の伴ったものでないと書いてる方もみてる方全然面白くないし価値もないなーということに気づいた。でも、こういう気づきも、書いてみないと、やってみないと得られない。やってみることで、他の人のアウトプットに対する解像度が上がり、得られるものが拡大する。ということもまた気づき。知識をつけることにも同じような効果があるとおもうけど、その次の段階にあるイメージ。多分この活動が、問題意識や心震う何かに結びつくのではないかと信じている。

行動や思考の形跡を残すことも大事かも

自分のことは実は自分がよくわからない。なので、ちょっと頭によぎったことや、面白そうなことや、残しておいた方が良い。

セオリーは人や自己啓発書ではなく自分で定義すべき

格言とか、本に載ってる謎のマトリクスとかフローとか、大体読んだりしてもそれだけじゃ何も得られない。多分自分の中で経験や感情の変化について、なぜそうなったのかとか、こういう行動したらこうなるとかセオリー化した方が自分の生き方にはためになるだろう。

思い通りに行かなかった時の気持ちの処理と行動指針を予め確保するの大事

コロナもあって、色々予定がくずれたり、本当にいっぱいあった。期待しないというよりも、想定がダメだった時にどう過ごすかを携えておくのは精神衛生上安全だと思った。